まず聞こう。Wake up, Tom.「起きなさい! トム!」という文がある。このTomは「何格」か? 英語には「格変化 (以下『曲用』)」というものがある。I--my--me--mineというアレである。英語はその曲用をほぼすべて捨て去ってきた「のっぺらぼう言語」である。従ってはっきりと曲用が残っているのはこの「人称代名詞」だけなのであるが、 普通の名詞にも痕跡らしきものは残っている。Tomで言えばTom--Tom's--Tom--Tom'sとなる。とすれば上の文のTomは「主格」か「目的格」のはずであるが、このいずれでもないことは中1生にもわかる。これは「呼格:vocativus[ウォカーティーウス]」という曲用なのだ。文字通り「人に呼び掛けるときに使う格」である。「呼格」は徐々に「主格」に吸収されてゆき、今では呼格を持たない「印欧(インド・ヨーロッパ)語族」の言語も多い。文から独立して存在するが故に、文中での役割を明示するための曲用をさせる必要がないからだ。ただこのTomを「主格」と教えるには流石に無理がある。「昔は『呼格』ってのがあってね...」と説明くらいはできるように、英語の先生ならしておきたい......


  • Et tu, Brute.
    「ブルータスよ、お前か!」...①
  • Quo vadis, Domine?
    「主よ、どこにいらっしゃるのですか?」...②
「呼格を使った例文を挙げよ」と言われたら、筆者は迷わず上記2例を選ぶ。ラテン語の名詞・形容詞の曲用は第1曲用から第5曲用の5種類に分かれるが、ほとんどの呼格は主格と同じ形を取り、異なる形を取るのは「第2曲用(男性名詞)」のみだ。-us [ウス]-e [エ]に変化する。BruteBrutusの、DomineDominusの、それぞれ呼格である。 因みにvadis [ウァーディス]vado [ウァードー]--vadere [ウァーデレ]=go で、invader「侵入者」などで英語にもその痕跡を残す。以下et (=and)tu (=you)quo (=where)Domine (=Lord)となる。

クォ・ヴァディス 1に関してはもはや説明は不要だろう。実質的初代ローマ帝国皇帝Gaius Iulius Caesarガイウス・ユリウス・カエサル」の、この世に残した最後の言葉だ。2は「クオ・ヴァディス」という映画の中の名台詞。時は紀元60年。ネロ帝の迫害を逃れアッピア街道を南へと急ぐペテロ。その眼前に光り輝く主・イエスが降臨する。ペテロは問う。「主よ、どこへいらっしゃるのですか?」。イエスは答える。「お前が信徒たちを見捨てて一人逃げ出そうというのなら、 私がこれからこの足でローマに上り、今一度十字架に架かろう!」と。はっと我に返るペテロ。彼はその場でくるりと踵を返し、ローマへともどってゆくのである。涙、涙の名場面だ。背景には遠く「サン・ピエトロ大聖堂」が映し出されている。無論これはペテロ殉教の地に後年建てられたもの。この時点で存在するはずはない。しかし時系列を無視して敢えてここに入れた。心憎いばかりの演出である。映画「クオ・ヴァディス」。名作だ。是非見て欲しい。

この「呼格」には思い出がある。センター試験対策問題を解いていたときのことだ。「ある長文問題」の中に、これまた「ある少年」が登場する。イギリスの寄宿舎学校に入れられたこの少年は、初日からさっそく校長先生直々に個別特訓を受ける。科目はラテン語だ。「メン・メンサエ・メンサエ・メンサム・メンサー...」と、延々と「第1曲用名詞(女性名詞)」の暗記特訓が始まるのだ。「先生、『呼格』って何? 」「呼びかけるときに使うのよ」「『おお机よ!』なんて、誰が呼びかけるのさ?」と少年がゴネまくる...といったストーリーだ。「何てくだらない話だ!」と30年前、ある予備校で英語を教え始めていた筆者は憤慨したものだ。しかしこれは筆者の無知であった。今となっては顔から火が出るくらい恥ずかしい。「穴があったら入りたい...」とはこのことだ。この少年の名は「ウィンストン・チャーチル」。第二次世界大戦時の大英帝国の宰相である。第32代アメリカ合衆国大統領・F.R.D.(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)と組んで日本を真珠湾で嵌(は)めることになる、あの戦争屋・チャーチルだ。チャーチルの「ラテン語ノイローゼ」は、ラテン語学習者なら知らぬ者はいないほど有名な話なのだ。因みに「メンサ <mensa>」 はtableの意味である。


「人生は短く芸術は長い」???

先日音楽家の坂本龍一氏が亡くなられた。訃報を伝えるニュースの中で、氏が生前好んだ言葉としてこの諺が紹介されていた。人口に膾炙(かいしゃ)され尽くした感のあるこの言葉はどんな意味なのか。改めて考えてみたい。「虎は死して皮を残し人は死して名を残す」という意味なのか? 全く違う。ではラテン語・ギリシャ語に立ち返って解釈してみよう。まずはラテン語だ。
  • vita brevis ars longa
    [ウィータ ブレウィス アルス ロンガ ]
まず断っておく。vはラテン語では[w]の音になる(wの文字はこの時代まだ存在しない)。まずvita=lifeだ。vital 「重要な」/ vitality「活力」/ vitamin「ビタミン」などの派生語を持つ。Vita Sexualis[ウィータ・セクスアーリス]などという森林太郎(鴎外)の小説もあった。brevisshortbrief「短い」となって英語に残る。briefing「簡単な報告」 / brief case「ブリーフ・ケース(書類入れ)」がある。また下着の「ブリーフ」もこれだ。longaは言うまでもなくlongである。問題はarsだ。ご推察の通りこれがart「芸術」となったのだが、ここでは「学問・学芸」の意味である。 ArtesLiberales [アルテースリーベラーレース]=Liberal Artsは「自由科目・教養科目」。「文法」「論理」「修辞」「算術」「幾 何」「天文」「音楽」の七科目を言う。何故「自由」なのか? それは「自由民の学ぶ科目」だからだ。自由民の反対は 無論「奴隷」である。ところでこの諺を見て、あることに気づかれただろうか? そう。「動詞がない」のだ。ラテン語、 ギリシャ語、そしてヘブライ語にも、「動詞のない文」が存在する。これを「名詞文」と呼ぶ。何のことはない、be動詞(ただし『現在形』のみ)の省略なのだが、詳細は後日を期す。話をもどす。

つまりこの諺の本当の意味は、「学業成就への道は遥か遠くそれに比して人の一生は余りにも短い」「少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず『朱熹(朱子)』」の意味なのだ。「光陰矢の如し」「日暮れて道なお遠し」等々、 日々の研鑽を促す金言は洋の東西を問わない。要するに「寸暇を惜しんで学べ若者よ!」ということだ。ついでなが ら元祖のギリシャ語でも記しておく。医学の祖・ヒポクラテスの名言とされる。
  • 'ο μεν βιος βραχυς η δε τεχνη μακρα: Ιπποκρατης
    [ ホ メン ビオス ブラキュス ] [ へー デ テクネー マクラー ] [ヒッポクラテース]
'οηは、それぞれβιοςとτεχνηにかかる定冠詞(=the)。名詞が曲用を起こせば冠詞も呼応し曲用を起こ す。μεν~δε...は「〜である一方...(対比)」。つまり本体はβιος βραχυς η τεχνη μακραだけなのだ。βιος=bioslifebiology「生物学」などでお馴染み。所謂「バイオ」だ。τεχνη「学問」は technique 「技術」。μακρα=makra μακρος=macros[マクロス]「長い・大きい」の女性変化で「マクロ経済学」や「マクロな視点...」などがある。μικρος=mikros[ミクロス]「短い・小さい」の反対語だ。氏がこの諺の本当の意味を知っていたかどうか、寡聞にして筆者は知らないし、ご本人がどう解釈しようと赤の他人がとやかく言うべき筋合いはない。しかし公共の電波に乗せるのなら話は別である。明らかに誤った解釈をしているのだからコメントを入れるべきであろう。「情けは人の為ならず」を「甘やかすと本人の為にならない」などという文脈で使ったら、たちまち 視聴者から抗議の電話が殺到する。いずれにしても坂本龍一氏が偉大な音楽家であったことは事実である。氏の冥福を祈りたい。


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