今月号は「文型の嘘」について書く。英語は「私は・愛している・あなたを」でSVOだ。一方日本語は「私は・あなたを・愛している」で一応SOVという語順になる(ように見える)。そして「世界の言語はSVOがスタンダード。日本語が特殊なのだ!」などという、まるで「日本語もSVOにすべきだ!」「だから日本語は原始的なのだー!」などと言っているような言説を時々耳にする。どうして日本人自身が日本語を卑下するのか。不愉快極まりないことである。しかもこれは二重の意味で「」である......

「世界ではSVOが主流」というのがまず「嘘」だ。世界中の言語を調査した結果、SOVつまり「日本型(?)」の方が若干多いことがわかっている。というより「文型」で言語を分類すること自体が「英語に毒されて」いる証拠なのだ。「ラテン語」にも「ギリシャ語」にも「文型」などという面倒なものは存在しない。そもそも「その必要がない」からだ。例えばラテン語で「クレオパトラ」を例に取ろう。以下の通りに変化する。

単数 複数
主格(~は) Cleopatra
[クレオパト]
Cleopatrae
[クレオパトラエ]
属格(所有格:~の) Cleopatrae
[クレオパトラエ]
Cleopatrarum
[クレオパトラールム]
与格(~に) Cleopatrae
[クレオパトラエ]
Cleopatris
[クレオパトリース]
対格(~を) Cleopatram
[クレオパトラム]
Cleopartas
[クレオパトラース]
奪格(前置詞+目的格) Cleopatra
[クレオパトラー]
Cleopatris
[クレオパトリース]

画像 「クレオパトラに複数形...?」と奇妙に感じられるかも知れないが、クレオパトラが二人いれば当然「複数変化」する。これは英語でも同じだ。古代エジプトのプトレマイオス朝にはクレオパトラという名の女王が七人いた。つまり有名な「エジプト最後の女王クレオパトラ」は「クレオパトラ七世」なのである。

話をもどす。すべての「名詞・形容詞」が「変化」を起こすのだ。「格変化」を普通「曲用」と呼ぶ。「変化」という表現は「時間の経過」を連想させるため不適切である...とする言語学者もいるからだ。「動詞」の変化は「活用」。「名詞」「形容詞」の変化は「曲用」だ。さてこれがどういう意味かおわかりだろうか。「語順を出鱈目に並べても、ちゃんと意味が通じる」ということだ(ラテン語では主語はほとんど省略されるが、明示される場合でもたいてい文末に来る)。そして我らが日本語も、ラテン語・ギリシャ語の仲間である。「私は・愛している・あなたを」でも「愛している・私は・あなたを」でも「あなたを・私は・愛している」でもちゃんと通じるではないか。日本語に「格変化」は無い。しかし「格助詞(て・に・を・は)」がある。「文型」など無い方がむしろ便利だ。どの単語を強調しているかが一発で分かるからだ。英語ではその区別がつかない。その単語を強く読めばいいのだが、書き言葉ではその手は使えない。
  • It was Tom that broke the window.「窓を壊したのはトムだ」
...などといった「強調構文」を使うしかないのだ。実は「文型」というのはごく最近になって登場した概念で、英語を除けば「フランス語」しかこれを持たず(理由は英語の場合と同じ)、その他の「ドイツ語」「スペイン語」「イタリア語」「ロシア語」などは全て「ギリシャ語」「ラテン語」「日本語」の仲間なのである。

しかしどうして英語が、こうも見事に「曲用」「活用」を喪失したのか...だが、ブリテン島の辿った数奇な運命が関係しているのだと推察する。古来この島は、幾度となく異民族の侵入を受けてきた。そしてその度に征服者たちの言語が持ち込まれた。細かい「曲用」や「活用」にこだわっていては意思疎通ができなかったからではないか。現代英語も世界中に広まるにつれ、どんどん劣化が加速している。「細かいことなんて言いっこなし!通じさえすればいいんじゃね?」というわけだ。所謂「ピジン・イングリッシュ」と言われるものだが、それと同じことが、規模は違えど「この島」でも起こったものと考えられる。そこで主語と目的語を区別するために、「場所を指定」するほかなかったのだ。「文型の誕生」である。「フランス語」の歩んできた歴史も、英語と大同小異である。「フランス」はかつて「ガリア」と呼ばれ、「ケルト人」が住んでいた。そこにローマ人が「ラテン語」を持ち込んだ。さらに「ゲルマン民族大移動(AD375年)」でフランク人とともに「ゲルマン語(ドイツ語)」がなだれ込んだ。こうしてできたのが「フランス語」だ。「英語と大同小異」と書いた意味がご納得いただけただろうか?


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