ラテン語・ギリシャ語を独学で学び始めて15年になる。そこで気づいたことは、如何いかに英文法に嘘が多いか...ということだ。そこでこの嘘を一つ一つ暴いてゆくことにした。今回は「仮定法の嘘」について書いてみた。受験生諸君もしっかり「仮定法」を理解してもらいたい。

因みに単に「ギリシャ語」といえば、それは「古代(古典)ギリシャ語」を指す。現代ギリシャ語は「現代...」とつけなくてはならない......


「仮定法」は誤訳!

ギリシャ語でもラテン語でも、その他すべてのインドヨーロッパ語族の言語でも「仮定法」という名称は存在しない。「接続法」である。従属接続詞の後ろの動詞に特徴的に現れることからこの名がある。そこで以下、英語の場合は「仮定法」、ラテン語・ギリシャ語の場合は「接続法」の呼称を用いるが、「仮定法=接続法」と考えて欲しい。さて「事実と反対のことを仮定するのが仮定法...」と説明されているが、これは間違いである。「事実だと思って発話」すれば「直説法①」。「事実かどうかは関係ない。これは私の独り言よ。あとで『事実と違う』...なんて言われても困るわよ...」が「仮定法②」だ。故に①は「叙法(事実を述べる)」。②は「叙法(思いを述べる)」が正しい。


何故「時制」がずれるのか?

ルカ 「仮定法過去」は「今現在のことだが過去形を使う」などと説明がある。しかし「何故現在のことで過去形を使うのか」の説明が一切ない。簡単に書こう。「昔のことはどうしようもない(手が届かない)」「現在のことでも事実と異なればどうしようもない(手が届かない)」同じ「手が届かないつながり」で時制を過去にズラすのだ。ここで登場するのが「𝐚𝐬𝐩𝐞𝐜𝐭(アスペクト)」という概念だ。「相・面・側面」などと訳すが、要するに「物の見え方・感じられ方」だ。「直説法過去」は「𝐭𝐢𝐦𝐞(時)」という意味で「過去」であり、「仮定法過去」は「𝐚𝐬𝐩𝐞𝐜𝐭」という意味で「過去(手が届かない)」なのだ。この𝐚𝐬𝐩𝐞𝐜𝐭という概念を高校英文法では全く教えない。だから仮定法の説明が意味不明になってしまうのだ。

ギリシャ語では「直説法」「命令法」「接続法」「希求法」という4種類の「法」が存在する。だが「𝐭𝐢𝐦𝐞」という意味で「過去」なのは「直説法」だけで、それ以外は「時とはまったく関係ない」のに過去形が使われる。そもそも古代は、動詞は𝐚𝐬𝐩𝐞𝐜𝐭の意味しか持たなかった。それがいつのまにか𝐭𝐢𝐦𝐞を表すものに取って代わられていったのだ。この「𝐚𝐬𝐩𝐞𝐜𝐭」という表現方法。ギリシャ語でも「新約聖書(イエス・キリスト)」の時代に既に退潮の兆しが見られる。筆者が目下悪戦苦闘している「ルカによる福音書」では「希求法」は滅多に登場しない。


「法」って何?

英語には「仮定法」「命令法」「直説法」の3種類の「法」がある。だがこの「法」は「法律」ではない。「表現方法」の「法」である。英語にすれば意味がわかる。「𝐦𝐨𝐨𝐝(ムード・気分)」だ。要するに「どんな気分で発話しているか...」を表すのが「法」なのだ。「事実だ」と思って発話すれば「直説法」。「単なる私の願いよ! 希望よ!」であれば「仮定法」だ。しかしこれは適切な訳語が見つからなかったのだろう。ある意味仕方のないことだと思う。


仮定法って「どこの部分」のこと?

まずお断わりしておく。仮定法とは「if構文」のことではないifとは何の関係もない。では文のどこを見れば仮定法だとわかるのか? それは「動詞の形」である。故に仮定法か直説法かを判別するには「動詞の形」だけ見ていればいいのだ。例えばラテン語では「彼・彼女が愛する」はamat。「彼らが愛する」はamantと言う(現在形の場合)。しかし接続法になるとこれがそれぞれamet・amentへと形を変える。接続法なのか直説法なのかが、一発でわかるのだ。もっとも接続法の活用を新たにワンセット暗記しなくてはならないが...。

例えばI'm very hungry. I could eat a horse.という文がある。「空腹だ...」までは問題ない。ぎょっとするのはその次だ。「馬一頭(a horse)食べることができた...」と訳したらアウトである。いくら空腹でも馬一頭は無理だ。ギャル曽根ちゃんでも無理である。このcouldが「仮定法」の目印であり「馬一頭でも食べることが(今なら)できるであろうに...」という意味である。もっともこの「私」が「トラやライオン」であれば「馬一頭食べた...」でもいいだろう。要は「前後の文脈(context)」次第である。非常にややこしい。どうしてこんなややこしくなるのか? それは英語がラテン語やギリシャ語と異なり、「仮定法の動詞の活用形を(1つの例外を除いて)すべて捨て去ってきた」からだ。だから仮定法を「直説法の動詞の過去形で代用」するしかなくなったのである。ある言語学者の先生は、英語を評して「摩滅した言語」と呼んだ。けだし名言であろう。ありていに言えば「のっぺらぼう言語」ということだ。


「仮定法現在」について...。まずは原点に立ち返って考えよう。「仮定法過去」は「手が届かない感」を表すから過去形を用いる...と述べた。ならば「仮定法現在」はどうか? そう。「十分手が届く」となる。つまり「十分可能性のある内容を願う」のが仮定法現在なのだ。では以下の文を見て欲しい。
  • We insisted that he pay the bill.
    「我々は、彼がお勘定を払うことを主張した。」
典型的な仮定法現在の文である。しかしここで大抵の人はパニックになる。「ifがない!」と...。そこで思い出してほしい。「仮定法はifとは無関係。動詞だけ見てればいい。」ということを...。そこで下線部である。「三単現のs」がない。「動詞の原形」だ。実は仮定法現在は、動詞の「現在形」ではなく「原形」を使うのだ。ネーミングとの間にズレが生じるが、「現在形」では「直説法現在」と区別ができなくなってしまうからだ。「仮定法過去」ですら紛らわしいのだ。「仮定法現在」となったらほぼ絶望的だ。またもう一つの理由もある。これについては後述する。いずれにしてもこの文は、「あいつに払わせようぜ! 脅せば払うさ!」ということなのだ。ifを使った文もあるにはあるが、今ではほとんど見られず、こういった「命令(order/command)」「要求(demand/need)」「主張(insist)」「提案(suggest/propose)」などの動詞の後ろのthat節内で見られる。すべて「〜して欲しいなー! 〜しろよー!」という「願望」系の動詞だとわかる。故に「仮定法」なのだ。

次に「どうして原形なのか? 」の理由その2だ。ちょっと考えて欲しい。他に「いきなり動詞の原形を使うケース」を...。そう。「命令文」だ。命令文も「〜しろよー!」系であった。無論可能性があるから命令するのだ。このpay the billの部分だけ見て「おい払えよー!」と解釈してもいいわけだ。事実ギリシャ語では「接続法」と「命令法」は境界線が曖昧で、識別に苦労するほど「親和性」が高いのだ。


「命令文には時制がない!」という嘘!

こちらも某大手予備校の人気講師の先生の本に書いてある。無論「デマ」である。読者が子供だと思ってナメているのだろうか?

ギリシャ語もラテン語も、動詞は「法」と「時制」の厳しい「縛り」を受ける。そしてその活用表に存在しない動詞の形は、用いることはできないのだ。無論英語の命令文にも「法」と「時制」は存在する。諸君らが中1で学習する命令文は「命令法現在」だ。では「命令法過去」などというものが存在するのだろうか? 答えは「イエス」だ。

ギリシャ語には「アオリスト命令法」という形がある。「アオリスト」とは早い話が「過去形」のことだ。しかし「過去形の命令文」とはどうしたことか? 「過去の人間に命令しよう」とでも言うのだろうか? しかしここでも思い出して欲しい。「直説法以外は、時制は𝐭𝐢𝐦𝐞とは無関係だ」ということを...。「命令法現在...①」は「常に〜するようにしなさい」を表し、「アオリスト命令法...②」は「一度だけ〜せよ」を表す。新約聖書の四つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)ではイエスが民衆や弟子たちに説教する場面が数多く見られるが、この①と②の区別に注意して読むと面白い。確かにそうなっている。無論英語では「命令法現在」しか見られない。「直説法以外の活用をすべて捨て去ってきた」からだ。しかし「命令文には時制がない!」などと「嘘」を教えてはいけないのだ。


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