K I R I
 — 茗渓予備校通信 2023年 2月号

いまあるべき国語力について②

高1生もそろそろ受験を意識して学習を進めていく時期となりました。ただ何ごともまずは基礎が 大事です。そこで高2になる前に、現在の国語力のチェックとこれから進めていくべき学習(トレーニング)を確認しておきましょう。


現高1生の国語力

現代文

現代文の学習とは、話題となるテーマを理解し、漢字や語彙をしっかり身に付けるとともに、読み方を学ぶことです。入試でよく扱われる文章は基本的に論理的な文章で、そうした論理的文章に多い構造が対比の構造です。また言い換え原因と結果一般と具体例といったものの理解も読解では重要なポイントです。そうしたものを意識して文章を読み取ることが論理的文章の読み方になります。では、試しに対比について一つ考えてみましょう。次の文章中で筆者が重視している対比的内容を考えてみて下さい。
「LOVE」と「LIKE」はどう違うのかと聞かれて、「ラブ」は「ライク」より強いのだろうと答えたら、「程度の問題ではない」と人に教えられたことがあった。その先生は、「LOVE」は異質なものを、「LIKE」は同質のものを求めることで、そこが違うのだという説明のしかたをした。/この甚だ哲学的な解釈が、言葉の説明としても正しいのかどうかは知らない。しかし、聞いていて、なるほどと思った。/神への愛であれ、異性への愛であれ、「愛」には不安定な激しさが感じられる。それは、自分と異質なもの、対極にあるものに立ち向かうために起こる燃焼のせいかもしれぬ。これに対し、「好きだ」ということには、何か安定感がある。自分と同質なもの、共通するもの、同一線上にあるものを知る歓びであるためのような気がする。/言い換えれば、「LOVE」は、異質な相手と合体することによって初めて自分が完全になれるという欲求だとすれば、「LIKE」は、自分と同じものを相手の中に確認したい願望だと言えようか。/「愛」を最も深い、本質的な情念にして人間が造られたのだとすれば、やはり賛嘆すべき造化の妙に違いない。/しかし、人間には、もう一つ「知恵」というものが与えられた。知恵があるので、一万メートルの空を飛ぶこともできるし、原子を破壊する秘密さえ知っている。知恵があるので、目標を立て、それを達成するために最も効率のよい組織を作り、最も便利な方法を編み出す。/このようにして、物事を合理的にしてゆくことで、様々な問題が起こってくるが、その一つは万物を数字にしてしまうことだろう。数量化しなければ物は合理的にならないが、数字にすれば、一つ一つの持つ意味や質は無視されることになる。/あなたにとってかけがえのない人も、他の人と全く同じように、「一人」として数えられるにすぎない。「小鮒釣りしかの川」も、水量何トン、長さ何キロの川になってしまう。このようにして、人も物もすべてが「統計数字」になり、同質化されていく。/「愛」が人間の最も本質的な情念とされたのは、実は、異質のものと対することにより人間は自己発展することができる、という仕組みを内蔵させるためではなかったのだろうか。ところが、現代文明はすべてを同質化しようとする。その意味で、人間の知恵は「愛のない世界」を作ることに一生懸命になっている。/例えば、日本全体が画一的になり、地方の個性が薄れていくことがよくないのは、旅の楽しさがなくなるといったことからではない。異質なものがなくなることは、愛を失うことであり、自己発展のエネルギーを失うことになるからである。(深代惇郎「LOVEとLIKEについて」)

上の文章はかつて入試で出された『天声人語』(某新聞第一面のコラム)の文章です。冒頭から「LOVE」と「LIKE」に目が留まりますから、「LOVE」と「LIKE」が対比されていることはわかると思います。ただそれは単なるツカミのようなもので、筆者の言いたいことはさらにその奥にあります。そして、それは対比的な内容として理解できます。さぁ、いま読んでいただいてそれがわかったでしょうか? とりあえずこれかなと見当をつけた上でこの後を読んでください。現代文では「キーワード(キーフレーズ)」という言葉をよく使います。わかったような、イマイチよくわからないような、ある種うさん臭い言葉でもあります。たしかにどこにもこれがキーワードですとは書いてありません。しかし、そのキーワードを読み取ることが読解ということなのです。この文章のキーワードは、やはり「愛」ですね。それは何となくわかったかと思います。それでは、それに対置されている言葉は何でしょう。「愛」と並ぶキーワードです。つまりポイントとなる言葉です。ここまでくればぼんやりと見えてきたと思います。それは「愛」をなくすものです。つまり「合理性(合理的)」とか「効率」です。一般的には「合理」と「愛」は対義語とは言いません。ただここでの文脈では対置されたものとして理解できます。こうした読みを身につけることが現代文の学習です。


古文

古文を読むためには、まず古文単語をしっかりと覚えることです。高3のスタート時での一つの目安はおよそ300語程度だと思います。それをスタートとして一年間きちんと学んでいくと受験時には400〜600語以上の古語がマスターできているはずで、それだけ語彙があればほぼ読めないものはないと思います。そこから逆算すると、高2では200語程度、高1では少なくとも100語くらいは覚えていたいものです。単語が大丈夫なら、次は文法です。用言と助動詞はひと通り終わり、敬語も軽く理解しているかと思います。ただ古語と文法はやったのに文章が全然読めないという声をよく耳にします。では、ここでも一つ考えて下さい。次の「徒然草」の文章を読んで、文章中の登場人物は何人いるでしょうか、考えてみて下さい。
高名の木のぼりといひしをのこ、人をおきてて、高き木にのぼせて梢を切らせしに、いとあやふく 見えしほどはいふこともなくて、おるるときに、軒たけばかりになりて、あやまちすな、心しており よと言葉をかけ侍りしを、かばかりになりては、飛びおるるともおりなむ、いかにかくいふぞと申し 侍りしかば、その事に候ふ、目くるめき、枝あやふきほどは、おのれが恐れ侍れば申さず、あやまち はやすき所になりて必ず仕ることに候ふといふ。あやしき下臈(げらふ)なれども聖人の戒めにかなへ り。鞠(まり)も、難き所を蹴出して後、やすく思へば必ず落つと侍るとやらむ。


さてどうでしたか? 登場人物は「高名の木のぼり」と「(高き木にのぼせて梢を切らせし)人」がまず見つかったでしょうか。でも、さらにまだいます(ただ「聖人」は登場人物ではありません)。実は筆者がいるのです(つまり、答えは3人です)。一般に日記や随筆では筆者が本文中に現れても「私は」とは書きません。現代の私たちが日記などでわざわざ「私は」と書かないのと同じです。そうした文章の常識からはじめて、主語の見つけ方、あるいは主語の交代といった主語について学ぶことが案外不足していると思います。主語がわかり、古語と文法が身についてはじめて古文が読めるようになるのです。