最近は「電子辞書の是非」についてよく聞かれます。結論から言えば、「使い方次第」だと思います。確かに便利なことは事実です。しかし使い方を間違えれば「文明の利器」が「凶器」にもなる。要は「車」と同じです。「中学の間は、電子辞書は使用禁止!」という指示を出している学校が一部ありますが、その意図は「中学生にハンドルを握らせるわけにはいかない。紙の辞書をしっかり使いこなせるようになってから...」ということだと思います。以下は「電子辞書」と「紙の辞書」、そして「もっといい辞書」に関する考察です。ノスタルジーは極力排除するよう心がけましたが...。

「最高の辞書」は...?

一口に「電子辞書」といっても「古語辞典」・「漢和辞典」・「国語辞典」など、さまざまな辞書機能が搭載されており、使用者の年齢・職業・用途もさまざまです。さらにこの様々な機能を縦横無尽に駆使できる方もいらっしゃる。そういう方の中には「紙の辞書なんて...」というご意見の方もいらっしゃるでしょう。それはそれでお使いになればいい話。しかしここでは議論の拡散を避けるため、「英和辞典」・「中高生が利用」・「大学入試の為」と条件を限定させていただきます。ネット上で議論百出しても結論が出ないのは、様々な人たちが様々な立場から主張をし、論点がかみ合っていないからです。さらにそこでの意見で決定的に欠落している視点が一つ。それは「単語は文の中に入って初めて意味を持つ。」という点です。文章を抜きに議論しても、結論など最初から出ようはずもなかったのです。

結論から申し上げれば「最高の辞書」とは「自分の頭の中の辞書」ということです。「紙の辞書」も「電子辞書」も、その補助的手段にすぎません。無論昔は電子辞書のような便利なものはありません。紙の辞書は手間がかかる。同じ単語は二度と引きたくない。そこで当時の学生は、この「頭の中の辞書」をいち早く作ってしまうことを目指したのです。例えば1つの文に知らない単語が3つあったとします。1つの単語には少なくても3個くらいの意味が載っている。つまり3×3×3=27種類の「組み合わせ」があるわけです。しかし今後電子辞書がいかに進化を遂げようとも「どれとどれを組み合わせたらいいよ!」ということまでは指示してくれないでしょう。しかし「頭の中の辞書」はこの27種類を瞬時に比較対照し、全体の文脈も考慮した上で「ベストな組み合わせ」を選び出してくれるのです。これを痛感させられたのは、ラテン語でユリウス・カエサルの「ガリア戦記」を読んでいたころのことでした。「辞書さえ引ければ楽勝さ!」などと気軽に考え、「羅和辞典」片手に遮二無二攻めかかったのです。結果は私の「惨敗」でした。実際には「1つの文に知らない単語は3つ4つ」などという生易しいものではなく、おまけにそれぞれの単語は「格変化」や「活用」を起こしていますから形がまったく変わっている。1つの動詞が250種類にも活用を起こす、それこそ「お化け言語」です。加えてラテン語には日本語と同じで「文型」というものがない。今格闘している文の語順はSVOかも知れないしOVSかも知れず、或いはVSOかも知れません。とにかく頭が疲れました。一晩かかって一つの文が訳せなかったことも...。「頭の中の辞書」の存在を思い知らされたのはその時でした。知っている単語ばかりの文だと、それこそあっけないくらいに簡単に訳せてしまうのです。おおまかな文構造さえ捉えてしまえれば、細かい「活用」や「格変化」上の齟齬などは、追々「各個撃破」していけばいいからです。

英語には「活用」や「格変化」などの苦労は確かにない。しかし代わりに同じスペルで「名詞」にも「動詞」にも「形容詞」にもなり得る単語がたくさん存在します。辞書でその単語を引いたとして、それが今訳そうとしている文の中でどの品詞として機能しているのか、どうやって判断するのでしょう。「品詞が不明」ということは「どれが主語でどれが動詞か分からない」ということです。文がどこで切れているのか、どこからどこまでがどこにかかるのか、そんなことも分からない...ということです。私は英検2級長文を読ませる時点で生徒たちに文構造を必ず記入させて全文和訳させていることは既に書きました。その際決まっておかしな場所に区切りを入れる生徒さんがいます。文構造を完全に見失っていることが分かります。ラテン語や古代ギリシャ語の電子辞書が今の日本に存在しているかどうか、寡聞にして私は知りません。しかし仮に存在していたとしても、おそらく大した役には立たないでしょう。単語の意味とは「それが所属する文の中に占める位置によって有機的に決まる」もの。単語をすばやく引いて、それで何かが解決するという類の問題ではありません。

「有機的」と書いて思い出しました。それは現代の子供たちの「一行目から辞書を引き始める」という奇妙な習性です。「瞬時に引ける」ということで、ついつい電子辞書に手が伸びる気持ちは分からないでもありません。しかしむしろこれは「逆効果」です。我々の時代にはこんな読み方をする人間は一人もいませんでした。当時は紙の辞書しかありませんからそんなことをしたら自殺行為。海図も持たずに外洋に乗り出すようなものです。知らない単語はあって当然。文の大意が汲み取れる限りにおいては辞書など引く必要などないのです。そして「どうしても引く必要のあるキーワードだけを引く...」・「意味を類推した上で、確認のためにひく」という読み方でした。そうすれば辞書にたくさんの意味が載っていても「あ!この意味だ!」とピンとくるわけです(もっとも「出る単(試験に出る英単語)」などでしっかり「頭の中の辞書」を作り上げていたからこそ、こういった読み方が可能であったわけですが...)。この仕事を始めて四半世紀が過ぎようとしている今も、大学入試長文で知らない単語はいくつも存在します。知らない単語が無くなることなど「永遠にない」のです。早い話が「死ぬまで勉強」ということですが、それでも生徒たちの半分、或いは3分の1の時間で入試問題が解けてしまうのは、こうした読み方をしているからです。要は単語に「プライオリティー(優先順位)」をつけること。実際大学入試では「辞書持ち込み」は原則「不可」。故に「如何に辞書を引かずに文意を汲み取るか...」が重要となってきます。「前後関係から単語の意味を類推する」のもその一つ。しかしふだんから電子辞書に頼り切って(紙の辞書には無論頼れない)いると、「文脈から類推する」という能力が育ちません。既に書きましたように、電子辞書は「車」と同じ。車を買えば、人は自分の足では歩かないようになるのです。50メートル先のコンビニに行くのにもエンジンをかけるようになる(筆者実話)。human(人間)はラテン語のhumus(フムス:土)に由来し、「土の上を歩くもの」という意味です。「天上を歩くもの(=神々)」との対比から古代ギリシャの詩人ホメロスが生み出した表現のようですが、土の上を歩くことを忘れたら「人は人でなくなる」のかも知れません。まったく「身につまされる話」です。やがては「定期試験はできるのに実力試験では棒立ち」という状態となり、「赤本から逃げ回る」ことになる。高校生になって「電子辞書がどうしても欲しい」というのであれば、購入されるのも結構でしょう。しかし高校生でハンドルを握ることは同時に「リスクも背負い込む」ことを、くれぐれも忘れないようにしていただきたいものです。最後に筆者の経験をお話しします。「辞書さえひければ長文が読める」という「誤った考え」に対するアンチ・テーゼです。

筆者がまだ「駆け出し」のころ、「慶応大学・文学部」の問題を解く機会がありました。いわゆる「慶応・文学部のスーパー長文」です。最近は簡単になりましたが、当時はそれこそ全く意味が取れない文章でした。設問はたった一言、「大意を500字以内で要約せよ!」これだけ...です。さらには何と「辞書持込み可!」。つまり「辞書なんて何の訳にもたたないよ!」という「不敵な挑戦状」です。流石にそう「うそぶく」だけあって、他の大学の長文は読めてもこの学部だけはまったく歯が立ちませんでした。「何について書いてあるのか」すら分からないのです。「こんなの出題するなんて反則だ!」当時の私はぶつぶつ泣き言を並べながらこの怪物と格闘しておりました。と...暫くしてある単語が目に留まりました。固有名詞で、どうも人名のようでした。「J・J・Rousseau」。そう、18世紀のフランスの啓蒙思想家「ジャン・ジャック・ルソー」です。「何だ、ルソーの話だったのか...」その時点ではそんなことすら掴めていなかったのです。まさしく「絶望的な英語力」でした。そこで1行目にもどって「ルソーの話」という前提のもとにこの長文を再度読み始めました。するとどうでしょう。これまで全く意味不明であった長文が、まるで「解読ソフト」にかけられた暗号文よろしく解け始めたのでした。まるでスパイ映画です。あとは大意をまとめるだけですが、そんなものは「歴史オタク」の筆者にしてみれば「赤子の手をひねる」ようなもの。たったひとつの単語が読めただけで、1000字近い意味不明な英文が解けてしまうのです。おそらくは歴史に対する「予備知識」と「類推能力」の成せる技でしょうが、人間の脳の不思議さをまざまざと見せつけられた瞬間でした(その点も計算に入れて問題作成が成されていたとしたら"凄い大学"です。)。辞書で何百語単語を引いたとしても、おそらく何の答も出てはこなかったと思います。






初めに...

最初にJUKENでお断りしましたように、この文章は電子辞書の営業妨害を意図したものではありません。必要としている「大人の方」は大いにお使いになればいい話です。しかしこと「中学生・高校生」に関しては、益よりも害の方が明らかに大きくなってきていると近年痛感しています。「責任持って運転してね!」と送り出したにも拘らず、あちこちで衝突事故を起こしているのです。ネット上での「電子辞書讃歌」も気にかかります。人間はここまで「自分の頭で考えること」を放棄してしまったのでしょうか。「九九なんて覚えなくていい!電卓がある!」・「歩く必要なんてない!車がある!」という意見は、若者の教育に携わる者の一人として流石に看過することはできないと筆を執った次第です。

「電子辞書」、「紙の辞書」そして「PC」

私は個人的には電子辞書を持ったことは一度もありません。理由は簡単。「使い難い」からです。紙の辞書は一目ですべてが見渡せます。しかし電子辞書は「画面の面積が制約を受ける」のでそれは不可能です。単語の意味だけならいざ知らず、関連する「熟語」や「語法上の注意」となると絶望的だと言えるでしょう。複雑な操作を使ってあれこれ細い道を分け入っていかねばなりません。「熟語があるだろ!ちゃんと探せよ!ちょっと貸してみな!」と子供たちを怒鳴っておきながら、私自身「あれ?おかしいな?どこにあるんだ?」とボタンをあれこれ操作することもしばしばです。まったく「しまらない話」です。「絶対ある!」と確信している私ですらこの有様ですから、あるかないか分からない生徒さんが熟語を見つけることなどほぼ不可能です。結局紙の辞書を引くことになり「二度手間」です。これらの弱点を克服するにはパソコン並みの広い画面が不可欠であり、そうすると受験生たちはモーゼの「十戒石板」の如きものを抱えて持ち歩かなくてはなりません。これではまるで漫画です。そこまで行かずとも、ミニチュア・サイズの十戒石板の如きものを電車の車内などで操作している人の姿を見かけます。「タブレット端末」とか言うようですが、「何もそこまでせずとも...」と私などは思います。何か疑問に思うことがあればメモでも取って、家に帰ってPCで調べればいい話です。「何が何でもバスの中で調べたい!」という方であれば話は別ですが、ちょっとそういった状況は考え難いと思います。

2つ目には「値段」です。何でも一台2~3万円はするとか。たとえばこれが書籍ならどうでしょう。1冊2万円の本などほとんど聞いたこともありません。筆者が古代ギリシャ語と格闘していることは昨年書きました。その古代ギリシャ語の辞書が実は1冊4万円でした。これだけの値段となると見てくれもさながらコンクリート・ブロックのような代物です。「一度買えば一生使える」とはわかっていても、流石にこの値段には筆者もビビりました。書籍といえども「需要・供給曲線」の例外ではありえません。読む人が少なければ少ないほど高価です。逆にベストセラーとなれば「文庫」として再版され、何百円という値段で手に入ることはご存知の通りです。しかしこんな原子力時代に、古代ギリシャ語など誰も勉強しようとは思わないでしょうからこの法外な値段も仕方ありませんでした。とはいえどうしてもそんな大金を馬鹿正直に払う気にはなれず神田の古本屋街を足を棒にして歩き回り、何とか25000円の中古を探し当てました。2万円の書籍とはそれほどのものなのです。しかしこの電子辞書の方は「一生もの」どころか3~4年もたてば動かなくなってしまうようです。「入学した時買ってもらった電子辞書は壊れてる。でも新しいのは買ってもらえない!」という子が結構います。流石に親御さんも、こんな高価なものをそう何度も買ってはやれないのでしょう。私の「ギリシャ語辞典」と同じです。そういう意味でも「電子辞書は高校生になってから」がいいのです。高1時点で購入すれば、おそらくは「大学入試まで持つ」からです。それにしてもこんな短期間で壊れてしまっては諦めがつきません。ローンをやっと払い終わって「さあこれから...」という車を交通事故で「お釈迦」にしてしまうようなものです。車のように毎年「保険」をかけるわけにもいきません。「他に古語辞典・漢和辞典・国語辞典なども入ってますよ!」というのが「売り」のようですが、そんなに今の子供たちは辞書を四六時中引きまくっているようには見えません。むしろ昔より遥かに「物を知らない」子たちが増えています(これに関しては項を改めますが...)。CMなどでは「電子辞書を買い与えれば、子供たちがどんどん勉強にのめり込んで行く。」といったような論調ですが、もしそうならこの現象をどう説明すればいいのでしょうか。何しろ「大岡越前」も「水戸黄門」も、「コロンブス」も「リンカーン」も「ワシントン」も知らないのです。

3つめは、にわかに信じがたいことですが「アルファベットを忘れてしまう」という点です。我々がどうして瞬時に単語を引けるかといえば、(当たり前の話ですが...)アルファベットの順序が頭にしっかり入っているからです。m/n/oあたりはちょうど真ん中。e/f/gは前半。r/s/tは後半...というように、だいたいの場所の見当がつけられます。しかし電子辞書ばかり使っているとこの位置感覚が鈍ってしまい、目的の単語にたどり着くのにとんでもなく長い時間がかかるわけです。私も古代ギリシャ語を始めたときに、実はアルファベットの暗記を疎かにして先を急ぎました。「英語のアルファベットとだいたい同じだろ!」という乗りでした(というよりアルファベットの語源はこの"アルファー・ベーター"から来ているのですが...)。しかしギリシャ語特有の文字もいくつかあり、それが出てくるとどこを探していいか見当がつかなくなるのです。「これはまずいな...」と反省した私は「α・β・γ・δ・ε...・」と中学1年生にもどった気持ちで新たにアルファベットに取り組み直したのです。ですから紙の辞書を引くのにやたらと時間のかかっている子を見たときに、「ははー、さては...」と、ピンときたわけです。勉強を続けていく限りいずれは紙の辞書にお世話になる(第2・第3外国語など...)わけですから、今のうちから辞書を引く癖はつけておいた方がいいでしょう。「分数のできない大学生」というのがかつて話題になりました。しかし先日のニュースでは、最近は「アルファベットのできない大学生」だとか。大学の先生方が悲鳴を上げていると聞いています。

ネットでも賛否両論あるようです。時代柄、電子辞書派がやはり優勢なようですが、電子辞書肯定論者の主張は大きく2つ。①「持ち運びに便利」・②「すばやく引ける」というものです。しかし①は学校と家で2冊辞書を置いておけば済む話(予備校にも無論"常備")ですし、②は「慣れていないから時間がかかる」のであり、慣れてしまえばそれほど差があるとも思えません。30秒で引けるところを10秒で引けたとしても、その差は知れたものです。何も何千語もの単語を引くわけではないのです。引いたあとの見やすさ(一目で俯瞰できる点)を考えれば、トータルでは明らかに紙の辞書に軍配があがるでしょう。そもそも「すぐ引けた」単語は「すぐ忘れる」のです。まさに「悪銭身につかず」です。さまざまな参照・検索機能も捨てがたいものがありますが、それなら自宅のPCでネットを使えばもっと詳しく調べられます。中には授業中に引く人がいますが、そんなことは決してやってはいけません。十中八九先生の話を聞き逃します(これも筆者の失敗談)。以上のようなことを考えれば、電子辞書の出番は「バス・電車の中」くらいしかないのです。しかし筆者は「電車・バスの中での時間は単語の暗記に充当せよ!」とJUKENに書いたはずです。したがって電子辞書は茗渓の生徒さんの場合に限っては「出番はない」ということです。確かに英語のできる生徒さんで電子辞書を使う生徒さんはおりますが、それは「その気になれば紙の辞書をいつでも引ける」というタイプであって、「ABCが怪しい...」というタイプではありません。

...で「結論」は?

中1で英語を始められる生徒さんのご父兄から「どんな辞書がいいんですか?」と聞かれます。しかし私自身は中学時代に辞書を引くことはほとんどありませんでした。教科書に必要な単語は「索引」にすべて載っていたからです(これを使うことでアルファベットの順序も覚えました。)。PROGRESSでもそれは同じです。まずはその単語からしっかり覚えることです。徒に辞書を引きまくっても沢山の意味が載っており、どの意味なのかを選別することは中1段階ではおそらく不可能です。下手をするとおかしな癖がついてしまうことにもなりかねません。「おかしな癖」とは、「1番最初に載っている意味を採用してしまう」ということです。そんなことをしたら「日本語のお化け」ができあがるに決まっています。中学で単語暗記を怠ってきた子が、高校になって電子辞書頼りに(これは紙の辞書でも同じですが...)長文を読み始めるときの典型的な症状です。またPROGRESS巻末の「索引」も、「この意味で教科書には載せましたよ!使用頻度が高いですからこれからまず覚えてね!」というメッセージなのです。他の意味を覚える必要はこの段階ではないということです。中2・中3あたりでも、辞書はほとんど必要ないと思います。「英検」の単語集や「ターゲット」などを覚えることが先決です(ここでも意味は1つか2つのハズ)。辞書が活躍し始めるのは受験勉強を本格的に開始する高校生になってからだと思います。ただし闇雲に引くのではなく「優先順位をつけよ!」とはJUKENに書いた通りです。この時期になったら「GENIUS(ジー二アス:大修館)」がいいでしょう。この辞書には単語の意味だけでなく「文法・語法の規則」も載っています。早い話が文法書としての機能も果たしているわけです(ただし電子辞書版はこの点"著しく不利"であることはすでに書いたとおりですが...)。ただしその分「語彙数」を若干犠牲にしているという側面は否定できません。難解な単語になると「載っていない」単語もあるからです。しかしとりあえずふつうの受験生が大学入試に使う分にはほとんど心配ないでしょう。

もう一つ、私がいまだに手放せない辞書に小学館の「PROGRESSIVE(プログレッシブ)」という辞書があります。もう四半世紀以上も昔になるでしょうか。イギリスに英語の勉強に出かける際、友人の女の子が「この辞書いいわよ!」と薦めてくれました。確かに「口語表現」などが豊富に掲載されています。これは「ジー二アス」にはない特徴です。しかしそれだけではありません。単語の「語源」がさりげなく記載されているのです。ドイツ語は大学で2年学習しただけで、ものにはなりませんでしたが、ラテン語と古代ギリシャ語の語源が掲載されているのには大いに助けられました。これがあると「なるほど、そういうことだったのか...」と使徒パウロ風に「目から鱗」となることもしばしば...だからです。ある程度以上のレベル(大学進学以降)になると、単語も難解になり一筋縄ではいきません。特に「医学部」などでは人体の名称や病名など、ほとんどがラテン語やギリシャ語です。英語の語彙数20,000語の中で、これら外来語の占める割合は何と約8割と言われています。使用頻度としては無論中学で学ぶ簡単な単語が圧倒的に多いのですが、割合からすればそういうことであり、この傾向が大学・大学院となるに従って強くなってゆくということです。「語源から覚える・類推する」という手法は早めに着手した方がいいと思います。筆者が「ターゲット1900の暗記を楽しむ人のために...」を著わした意味もそこにあります。無論「ランダムハウス大英和辞典」などには語源も詳しく載っています。


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